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願望に生きた偉人② 田中角栄 後編


格差是正に生きた政治家

   自分がやりたい政策を実施できる体制を整えた田中角栄は、政策の集大成「日本列島改造論」を1972年に発表する。列島改造論は、未来の日本を見据えた大都市と地方の均衡発展を図る具体的な政策をまとめた書籍である。その主な内容は、日本全国をその日のうちに移動できる高速輸送網(高速道路・新幹線・本州四国連絡橋・航空路線)及び情報通信網でつなぎ、農村を工業化して地方に数10万人規模の中核都市を複数作る。その結果として、大都市から地方への人の流れを作り、農村の過疎化と貧困、大都市の過密と住環境問題を同時に解消するともいうものだ。当時この本に書かれた具体的な政策内容は高い評価を受け、国民的な期待を集めた。この年、列島改造論を掲げた田中角栄は自民党総裁選で勝利し、54歳の若さで第64代内閣総理大臣となる。

 総理大臣となった田中は就任してわずか2ヶ月で日中国交正常化実現という歴史的な成果を上げ、最重要課題の日本列島改造論の政策実現に取り掛かる。しかし、ここで予想外の困難に突き当たる。改造論の中で工業化促進地域として具体的に名が挙がった地方の土地を不動産業者や企業が買い占める動きが全国的に起こり、地価の高騰とそれに連動する物価高が起こったのだ。改造論を支持した国民も生活を直撃する物価高に不満を持つようになる。そして、1973年に第4次中東戦争が勃発。日本では中東から輸入する石油の確保が危機に直面し、第1次オイルショックが起こる。1974年の消費者物価指数は前年度比23%も上昇し、原油価格の高騰に伴う物価高が田中政権に追い打ちをかける。

 世論や与党内から列島改造論は狂乱物価の原因と批判され、田中は自らの政策を一旦諦めることになる。それでも田中は政権の再起を掛けて1974年の参議院選挙に臨むが、与党自民党は惨敗する。田中はこの選挙に自分の支持団体・企業を総動員し、多額の献金を投入して選挙活動を行ったが、この企業ぐるみの選挙、金権政治体質をマスコミから痛烈に批判されてさらに窮地に陥る。政権発足時に60%を超えた内閣支持率は選挙後11%まで低下した。ついにこの年の12月に田中内閣は総辞職する。

 総理大臣を退いた後、田中は政治の表舞台から姿を消す。1976年、田中はロッキード事件で逮捕される。逮捕後、田中は自民党を離党し、もっぱら影で自民党の人事に影響力を発揮するとともに、事件の容疑に無実を訴える法廷闘争に全力を傾けることになる。1985年、田中は脳梗塞で倒れる。後遺症として言語障害が残ったため、政治活動が困難となり1989年に政界を引退。ロッキード事件の上告審が進む中、最高裁の判決を待たずに1993年12月16日、田中角栄は亡くなる。

 第1次オイルショック後、日本はそれまでの高度経済成長から安定成長の時代に突入する。田中が総理を辞めた1970年代中ごろから1980年代前半で地方のインフラは整い、働く場所も地方に着実に増えていったことで、大都市と地方の格差は十分小さなものとなる。もはや、地方に飢えた人が溢れるような日本ではなくなり、地方のインフラ整備に邁進した田中の夢は実現する。その実現のために田中が行った金権政治的な手法は世の中の批判を浴びたが、田中は批判そのものを拒絶することはなかった。田中は次のような言葉を残している。「政治家が仕事をすれば批判、反対があって当然だ。何もやらなければ叱る声も出ない。私の人気が悪くなってきたら、ああ田中角栄は仕事をしているんだと、まあこう思っていただきたい」。

 田中角栄は政策の理念・目的の正当性と政策の確実な実行を重んじ、実行過程は徹底して合理的にスピーディーに行う人だった。政策の実行過程が金権政治的な手法になったのは、彼にとってその方法が政策を実行するのに最も合理的だったからに過ぎない。決して法に触れることをしたわけではない。政策の結果として、生活に困っている人が救われるなら、その手法の批判は甘んじて受ける覚悟で政治に臨んでいた。

 前述のように田中が政治家になった当時、新潟県の農村では冬に道が雪で埋もれ、孤立した集落で死人が出るような状況だった。田中はそのような農村の陳情を受けて、新潟の山奥の小さな集落のために周囲の町につながる除雪車が通れる幅広い道路やトンネルを作っていった。それを見た当時のマスコミは費用対効果を無視して無駄な公共事業を献金や票のために実施したと批判した。それに対して田中は次のように語った。「利用者が少なくとも住民の生活にとって欠かせないものを作るのが政治家だ」。  

 この言葉には、経済効果が見込めない地域で不自由な生活を強いられる人の苦痛は、政治家が動かなければ解消しないという田中の思いが込められている。また、地域の隅々にまでアクセスを整備し、集落に分断されて暮らす人々の行動範囲を広げることは、局所的な経済効果は見込めなくとも広域的な地域の経済発展に貢献すると田中は考えていた。こうした陽の当たってこなかった人々を救うために、個別案件の経済効果を超えて政策を実行できる体制を田中は作り上げていった。

 しかし、田中が作った公共事業実施システムは地方インフラが十分に整備された後も動き続けた。もはや田中が当初思い描いた地方の貧困解消の目的を離れ、利権がらみの政官業癒着体制となった。献金と票を求めて地方の陳情を聞く与党議員、公共事業を受注するために政治家への献金と選挙協力を行い、官僚の天下りポストを用意する企業・団体、天下り先の維持に公共事業の実施権限を利用する官僚が相互に利益を確保する仕組みとなった。利権がらみの公共事業は1980年代以降、無駄な地方公共事業の山を築くことになった。赤字となる事業が続出し、その債務は今も地方の財政を圧迫している。今に続くこの問題は、正当な政治理念を持ち、役割を終えた仕組みを作り直せる実行力のある政治家が田中角栄以降現れていないことの結果だ。  

 田中角栄は政治家の仕事の成果は後世の人々が評価するものだと考えていた。首相在任中に政策実施が頓挫した列島改造論であるが、その構想は後の政権に取り入れられ、現在の高速道路網や新幹線の路線拡大、光回線網の整備などで具現化した部分がある。全国を駆け回るビジネスマン、旅行や帰省で地方に行く人々にとって高速道路や新幹線は今やなくてはならないものだ。また、現在では光回線の普及でどんな田舎にいてもインターネットで欲しい情報や物が入手できる。このような利便性を全国どこでも享受できるのは田中が当時優れたビジョンを示してくれたおかげだ。

 田中角栄の政治家としての思いを端的に表している言葉がある。「おい、飯食ったか!」田中は人に会うとよくこの言葉を掛けたという。彼にとって飯がしっかり食えることは人が幸せな生活を送れていることとイコールだった。飯が食えない人をゼロにすることが彼の政治家としての夢だった。田中角栄の死後、日本の経済は長く低迷し、労働環境が変化したことで国民の収入格差は広がり、貧困問題が再び大きくなってきた。格差是正と貧困の解消を願望とし、具体的な政策で貧困を強力に解消していった彼が今の日本に生きていたら一体どんな政策を打ち出してくれるのか、そんな叶わぬ期待を持ってしまうほど田中角栄は魅力的な政治家だった。



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